2019.12.15 mement mori様へ提出
ありがとうございました
損得の感情を無しに人は生きていけるのか?
そんなことを出来るのはきっと彼くらいだろう。私は直ぐに息の仕方が分からなくなって、苦しくて、苦しくて、結局誰かに助けて貰わないと生きていけない。笑えるでしょう。
橙色の光が部屋に差し込んできて夜がすぐ近くまで来ていることを教えてくれる。炭治郎の顔付きが剣士のそれに変わったことでそろそろ任務に行ってしまうのだなと悟るには充分だった。ゆっくりと立ち上がり隊服の上着を着て丁寧に釦を留めていく彼の手はいつも同じ場所で動きが止まる。
「名前、こっちに来てくれないか?」
詰襟を指差しながら柔らかく笑う炭治郎。人に寄りかかることを知らない彼が唯一甘えてくれる瞬間が私は大好きだった。詰襟に手を伸ばしてホックを留める。ただそれだけなのに彼の厚い胸に自分で飛び込んでいくような、そんな錯覚を起こして脈が早くなっていた...はずなのに。ホックを留めている間にするりと私の背中にまわる彼の腕とそこから広がる温かくて優しい体温にすら今は何も感じない。
炭治郎と一緒にいると苦しくなるのを自覚したのはいつからだろうか。
ホックを留め終わり逃げだすように炭治郎から離れた。さすがに大袈裟だったかな...?中途半端に持ち上げられたままの彼の腕が行き場を無くす。表情は見えないが握り締められた彼の手はどこか悲しそう。
「...留めてくれてありがとう」
「うん」
「ごめんな...、抱きしめようとして...」
違う、そうじゃない。
そんな言葉は聞きたくない。
どうして謝るの?そんな悲しそうに笑わないでよ。逃げた私が悪いのにどうして怒らないの?まただ。こうやって彼の重荷になって...笑顔を奪ってしまう。こんな自分が本当に嫌いだ。
炭治郎は優しすぎる。そう、誰にでもだ。
見返りを求めることなく優しさを振り撒く彼を見て、こっちがふつふつと怒りを感じてしまう程に。
もういいじゃないか、私だけに優しくしてくれれば。そうしたら私が彼を幸せにしてあげるのに。それじゃあ不満なの?
そんな歪んだ感情が渦巻いてその中心にあるものはただの嫉妬と憎悪。しっかりと私の心に根を張ったそれらは彼にしか排除出来ないほど大きくなってしまった。
「炭治郎は苦しくないの...?」
「名前....」
「私のこと怒ればいいじゃない」
「何を言ってるんだ...。そんなことするわけないだろ。俺は名前にずっと笑顔で...幸せでいて欲しいんだ」
彼の考えはとても理解しがたい。
永遠に変わらない幸せを与えたいと言うなら、根本的な苦しみを私に与え続ける彼と離れないといけないのに。
"誰にでも平等に優しい"
それが炭治郎の良いところ、なんて他人に言われなくても分かっている。その優しさを独占出来たらと何度願ったことか。私も彼くらい温かい目で世界を見渡せていたら違う結末だったのかな。まあ、今更こんなことを考えても仕方ないのだが。
もう...苦しみから解放してくれないだろうか?
「炭治郎、別れよう」
部屋に刺す橙色の光。それに黒が混ざって私の心を比喩しているみたいだ。こんなに酷い色になってしまったんだ、炭治郎にも見えてるでしょう?
ねぇ、助けてよ。
小さく息を吐いたあと、私の言葉に肯定の返事をした彼。その綺麗な赤い瞳は揺らぐことはなかった。炭治郎も本当は分かっていたんだ、私達が選択すべき方向を。
最後に見せてくれた優しさは、誰に向けられたものかなんて考える必要はない。
ああ、やっと苦しみから解放された。
永遠の幸せを手に入れたね、私達。
「宝石言葉/ネフライト/慈悲」